相手の反応を考えてしゃべる事、私にはこれができない。いわゆるKY、空気が読めない男。
今まで生きていて何度言われたかわからない言葉である。
40を超える今になってもなかなか難しい。
しかし中には子供のころから自然にできる人もいる。
なぜこうもコミュニケーションというのは私にとって難しいのか。
結局のところ素養と親からの教育が大きいのではないかと思う。
はっきり言って私の親も子供もKYである。脳の構造もある程度遺伝するものなのだろう。
この特性はとても苦労する。目上の人の半分以上には嫌われるし、敵を多く作る。
もちろん中にははっきり物を言えるのが良いと、言ってくれる物好きもいるが、そういう人でも面と向かって自分自身が否定されれば、負の感情は抑えきれない事が多いだろう。
言わなくてもよい事を、何度も言わなくてもよい言い方で発言し、多くの物を失ってきた。
中年を迎えるころになってようやくである、ある程度の空気を読んで発言を控えたり、言い方を工夫したりできる事もある様になってきた。それでもいつもうまく行くわけではない。
出来ない自分が、少しはできる様になったからわかる事もある。
決定的に自分に対する第三者的視点を持つことが難しいのだ。
頭の中で相手とのやり取りをシミュレーションできない。自分の感情主導で思考することで目いっぱいで、その感情を切り離し、言葉で思考し、相手がこの言葉を受け取ったらどう返すか?という検討が困難なのだ。
故に思ったことがそのまま口に出る。
話す前に少しは考えろ!等と怒られても生来の思考回路でありそう簡単に修正の利くものではない。
こんな自分が少しなりとも自分に対する第三者視点を持てる様になったのはいつだろう。
正直少しずついつの間にか少しだけ出来ていたというほかない。
恐らく自分はKYだという自覚をした事、空気を読めないという一言で片づけられがちな、いくつかの具体的な事例(人が気象に興味も無いのに天気の話をする理由)を理屈で知った事、そういった事の積み重ねなのだと思う。
KYなのだから理屈で理解しなければ直す動機すら生まれないという事だ。
この問題が困難なのは、自然に相手の気持ちを慮る事の出来る普通の人には恐らく、その理屈は説明できない事、仮にできても嫌いなKY野郎に親切に教えようとはなかなか思わない事、しかしKYな側には理屈でしか理解できない事、さらにKYな側にはKYな側で別の理屈がある事。
とても超える必要のあるハードルが多い事だろう。
そして天性というべき、最初からこれができる人には一生敵わないのだろう。
やはり人生は不平等である。
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